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心の中を吐き捨てる場所

どうしようもない

最近、自分の身体が自分のものでないような感じがして、気持ち悪い。

眠い時にすんなり寝れなかったり、頻繁にお腹が痛くなったり、頭が痛くなったり。
わりと楽しく、何も考えないようにはしているんだけどな。無意識にストレスを感じているんだろうか。

美味しいご飯を食べて、頑張って生きていきたい。できることなら、笑って。

暑いのが苦手だから、寒い方が過ごしやすいけど、寒いと寂しくなることも多くて、どうしようもない。

文章にもできない、複雑な、何とも言えない気持ち。他人には絶対にわからない、そういう気分。

どうしようもないし、どうにかできることでもない。

好きなことをして、何かを失うってよくあることだけど、嫌だよね。

本末転倒、自業自得と言ってしまえば、その通りなんだけど、それが我慢できないのが人間なんだろうね。
欲しいものを買えば、お金はなくなるし、テレビを見すぎると、視力は低下する。

趣味であろうと、適度が良いのは、頭ではわかっていても、何かから逃避したかったり、寂しかったり、現実も全て思い通りになれば、毎日楽しく生きていけるのに。

何が大切か、何が必要か、何ならば捨ててもいいのかなんて、人によって違うんだろうけど、私は欲張りだから、何も捨てずに死んでいきたい。

他人に何を言われても、人はそう簡単には変われないだろうから、歳を取って、ふと人生を振り返った時に、どんなにむちゃをしていても、何かを犠牲にしていても、自分がよかったと思えるならば、それはそれで幸せなんじゃないかなと思う。

私はまだ振り返るのはもっと先でいいかな。

強さ

最近、精神が安定しているような気がする。

あくまで気がするだけで、いつも不安定なのには変わりはないんだけど。

諦めと覚悟にも似たような、よくわからない感情と、眠気と食欲が混ざり合い、ちょっとの喜びが生まれるような、そんな感覚。

昨日、久々に母に会った。

私よりインドアなのに、ポジティブで明るい母。仕事で毎日疲れているらしい。

昔は恐いなと感じることも多かったけど、最終的には背中を押してくれ、無条件に私の味方で居てくれる唯一の存在というのは、やっぱり強いものだなと思う。

確かに、実家にいた時は、原因があって悩むことはあっても、突然の不安と病みに襲われることはなかったような気がする。
その時はよく喋る母だなとしか思ってなかったけれど。

今日は大好きな彼の歌も聴けたし、元気になれた感じがする。
ありがとう。

意味

眠ろうとしている時、自分の心臓の音さえ、うるさいと感じてしまうのは、なぜだろう。

雲の流れる音や風の音、微々たる自然の音でさえ、うるさいと感じてしまう。
昔は、電車の中でも、職場の休憩室でも、人がたくさんいる中でも眠れたはずなのに。

気付いたら、いつの間にか寝てはいるんだけど。

だけど、人の寝息が恋しかったり、温もりが恋しかったり、寝ている時でも寂しさって感じるものなんだなと、一人きりで寝ている時に実感する。

感覚的すぎて、深く考えてもあまり意味はないんだけどね。

毎日毎日、世の中に疑問を抱いて、自分に自問自答して、頭を悩ませているけれど、結論も出ないし、何かが変わるわけではないから、それすらも意味がないような気がする。

せめて、意味のある存在でありたいと思うから、自分ぐらいは、自分自身を好きで居ようと思う。

まだ、何かを食べたいと思うし、喉が渇いたと思うから、私はまだ大丈夫。

衝撃的

確かに、不意打ちの出逢いや、偶然の出逢いほど運命的で、幸せな出逢いはないなと、とある方のSNSを見て、思う。

ウインドウショッピングでとても好きな洋服を見つけたり、たまたま入ったカフェで好みの紅茶が出てきたり、私を構成する「好き」は、偶然出逢ったものばっかりだ。

「嫌い」は原因と理由があって、そうなる場合が多いけど、「好き」に理由はいらない。1番感覚的に、肌で感じた衝撃が、好きに繋がると思う。

特に、人との衝撃的な出逢いは、すごくおもしろい。私の大好きな人たちは、いつもクレイジーで、見ていて飽きない。
心が休まる存在は、時間をかけてじっくり作っているんだけどね。

嫌いなところもいっぱいあるし、私の好きは絶対に届かないし、無駄ってわかってるけど、それでも大好きな彼のことも、いつかは好きが風化してしまって、そういえば好きだったなと思う日が来てしまうのかな?

それはちょっと寂しいなと思うから、そう感じる日が遠く先であればいいなと思う。

大人になると、1年が早いような、1日が短いような、目まぐるしさがあるから、どうなるかは、わからないけどね。
でも、気持ち的には、3年先も、5年先も、好きな存在でいたいし、この出逢いは幸せだったと思っていたいのには違いない。

猫になりたい。

寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、誰かに媚びを売ることなく暮らしたい。
嫌なときにはプイッとそっぽを向いて、爪を立てても、飼い主には甘やかされて愛される。
そんな存在になりたい。

野良猫だと、食べることも、愛されることも、生きていくことさえも、難しいのかもしれないけれど、短い一生を全うする為に、闘うのさえも、かっこいいと思ってしまう。

人間は長く生きて行けるけど、めんどくさい事が多すぎる。もちろん、人間でしか得られない感動もたくさんあるんだろうけど。

でも、猫にさえ好きとか嫌いとかの感情はあるだろうから、もういっそ石ころとか、じゃがいもでもいいかもしれない。
感情のないものになりたい。

そう思っていても、新米のご飯を食べて美味しいなと感じたり、初めて買ったパンが好きな味で嬉しかったり、感情が揺れることで、生きていることを実感しているから、すごく不思議だね。

無条件

無条件に愛されるって何だろう。

好きと言われるのは、好き。
愛してるは、よくわからない。

自分の良いところも、悪いところも、全部わかって、受け入れて、好きになって、愛してくれるってことなのかな?
それと妥協って何が違うんだろう。
やっぱり愛って難しいね。

今までの経験上、外見で好きになってくれる人はたくさん居たけれど、そんな信用できない人に、糞みたいな性格をしている本当の私を見せたことなんてなかったから、余計に、無条件で愛してくれるというのが、わからないのかもしれない。

あと、私は誰かを好きって言う方が好き。
誰かに全力の好きを注いで、7割ぐらい返って来て欲しい。私の好きは絶対にリターンを求めてるから、悲しいけれど、無条件ではない。

私には、無条件に愛されることよりも、無条件で愛すことの方が、困難なのかもしれないね。
ワガママだからかな。
どんなことがあっても、どんなことをされても、好きで居続けるって、大変だけど、いつかは私もそういう風になってみたいな、とは思う。

「求めて得た愛は良い。求めずして与えられた愛はさらに良い。」って、シェークスピアも言ってるし、無条件に愛されるのも、良いのかもしれないね。

いつか、愛される人になりますように…